書籍 「江戸開城 遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 7」 (2)2009年01月20日 00時53分51秒

 「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」の7巻です。「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」の大きなストーリーの流れの中で、重要な箇所です。第一章に引き続き他の章に関して感想を書きました。

 書籍の内容は、江戸開城後に各国の反応が書かれてあります。イギリスは、早くから御門側にいたため迅速に対応できましたが、幕府側を支援していたフランスは、公使をロッシュからウトレイにかえます。帰国したロッシュは、あまり活躍することなく、批判的な中で厳しい状態だったようです。

 御門の軍隊は、江戸を攻略した後、さらに北方の制圧に突き進んでいきます。このころサトウは平穏を取り戻した江戸で、勝や小松、大久保らと会って、徳川家に関するその後の処遇、御門の軍隊に関する話をしています。パークスは、新たな任務をサトウとアダムズ(新任書記官)に指示します。それは、北越戦線と新潟の状況確認と択捉島をロシアが占領したという風説の真意を確かめることです。このころイギリスとロシアは、世界的な規模での対立があり、パークスも極東でのロシアの動向に注意していました。日本の内戦に乗じて、ロシアが国後島と択捉島、そして、蝦夷地への侵略をはじめるのではないかと、イギリス本国からも監視依頼がありました。

 国後島に向かったサトウらは、宗谷付近で遭難してしまいます。しかし、アイヌの人々に助けられました。遭難の知らせが函館領事館に届き、イギリスと同じ目的で、ロシアの動向調査に来ていたフランスのデュプスレス号が入港していたので、デュプスレス号が助けに向かい、乗員全員を無事に助けることができた。サトウが救援を待っていたころ、旧幕府海軍の榎本が8隻の艦隊で品川沖を脱出します。一方、北方での戦場は北越から会津若松へ変わっていました。

 政府軍はパークスに対して、医師のウイリスを借りたいと申し出を行います。それに対して、パークスとウイリスは、政府軍の治療だけでなく、捕虜になった者の治療にもあたることを条件として提示します。しかし、現実は、捕虜になった者は処刑されて、ウイリスは捕虜の治療をすることができずにいました。軽井沢、高田、新潟から新発田に入り、ウイリスは会津討伐軍監督の仁和時宮に会い、新政府軍の負傷者ばかりではなく、会津軍の負傷者の治療にあたりたいと申し入れをします。仁和時宮は許可を出し、ウイリスに護衛を付けて、若松に送ります。会津側は捕虜に対して度の外れた残酷なことをしていました。それらのことは、すでに知りわたっていました。会津は、新潟とは異なり、悲惨な状況でした。ウイリスに対する会津側の役人や医師の対応も悪く、ウイリスは会津に対して相当な怒りがあったようです。その後、江戸にもどり、パークスに新政府側900名、会津側700名の治療を行ったと報告しています。新政府のウイリスに対しての評価は高く、新たに病院を設立して、その病院での日本人医師の指導をウイリスに依頼します。その病院が、現在の東京大学医学部の前身となります。

 そのころ、榎本軍が函館を占拠します。その問題に対処するため、パークスのもとに小松、木戸らが集まり、政府軍との大きな会合が開かれます。榎本の問題の対応に関して、外国の足並みが合わなくなっています。しかし、イギリスとフランスしか日本の近海に軍艦を持っていないことから、イギリスとフランスの主導で事が進んでいきます。

 この巻では、あまりサトウの活躍はなく、ウイリスの活躍がもっとも印象に残ります。ウイリスは当時の日本人の残酷さをもっとも知っている人に感じました。実際に日本人同士の戦を目の当たりにし、人道的でない処罰を捕虜や町人にしている日本人に対して、普通だと嫌気をさして、すぐに本国のイギリスに戻ろうとするのではなかと思いました。しかし、ウイリスは日本人を信じて、政府軍の護衛を受けながら厳しい寒さの中で治療を行っていました。日本に西洋医学を持ち込んだウイリスには感謝しないといけないように思いました。この書籍を読んで気がついたのは、最近はCMに流れていませんが、やはり北方領土は日本国有の土地であるのがわかります。

 「江戸開城  遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄 7」、萩原 延壽、朝日文庫